2010年08月11日
日本航空123便墜落事故【東京-大阪123便】
2010年8月12日をもって、事故から25年が経ちます。
絶対に、絶対に風化させてはいけない事故です。
この記事が、微力ながらも事故の風化防止に繋がることを祈って。 22/8/11
※以降の記述には衝撃的な内容が含まれております。
なお、今回の記事では混乱を避けるため、
陰謀論及びミサイル衝突論などの説をあえて度外視しております。
事件そのものについてだけ焦点を当てていきます。荒唐無稽とまでは言わないが、あまりに下らなく馬鹿馬鹿しい仮説だ。
墜落前の悲鳴「今も耳に」 日航機の管制官、沈黙破る
「夏になると当時に引き戻されるんですよ。(日本航空のジャンボ機の)
墜落直前にヘッドホンを通じて耳に届いた、
パイロットの『ああっ』という悲鳴のような声が忘れられない」
西日本のある空港で、男性(54)は言葉を選び、語り出した。
25年前の夏。東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)の管制官として、
上空の航空機と交信していた。8月12日も普段と変わらない一日だった。
当時29歳。管制官になって8年目だった。先輩管制官らと「関東南セクター」という空域を
担当する勤務に夕方からつき、管制卓に着席した。羽田への到着便が増える時間帯。
「そろそろ忙しくなるぞ」と思った矢先だった。
■午後6時24分47秒
「ブーッ」。管制室内にブザー音が鳴り響く。レーダー画面の日航123便の機影に、
緊急事態(エマージェンシー)を示す「EMG」の文字が点滅し始めた。
乗客と乗員計524人。午後6時12分に羽田空港を離陸し、大阪(伊丹)空港に
向かっているボーイング747型機だった。部屋の隅から、上司が近づいてきた。
■同25分21秒
「日航123便、トラブル発生。羽田への帰還を求める。
2万2千フィート(高度約6700メートル)に降下したい」
機長の声が英語でヘッドホンから流れてきた。
「了解」そう答えながら「おかしいな」と感じた。
エンジン出力が低下した、客室内の気圧が下がったなどと、
普段ならトラブルの中身を伝えてくるはずだが、機長は何も言わない。
心が騒いだ――
***
東京航空交通管制部に「羽田へ戻りたい」と告げた日本航空123便は、
旋回することなく、ふらふらと伊豆半島上空を西に向かっていた。
■午後6時27分2秒
「123便、確認しますが緊急事態を宣言しますね」
「その通り」
「どういった緊急事態ですか」
やはり応答はない。
「とんでもないことが起きているのでは」
TOP図参照■同28分31秒(地図上の①)
「レーダー誘導のため90度(東)へ飛んでください」
「しかし、現在アンコントロール(操縦不能)」
衝撃的な言葉だった。
普段はオフのスピーカーがオンになり、123便とのやり取りが管制室中に響いた。
■同31分2秒(同地図②)
「降下できますか」
「今、降下しています」
「名古屋に降りますか」
「いや、羽田に戻りたい」
「何とかしたい」。そう思うと、とっさの呼びかけが口をついた。
「これから日本語で話していただいて結構ですから」
パイロットと管制官とのやり取りは、近くを飛ぶ航空機でも聞き取れるよう、通常は英語を使う。
でも今は、パイロットの負担を少しでも減らし、事細かにやりとりしたかった。
123便は北に向かう。すでに隣の空域に移っており、無線の周波数を切り替え、
別の管制官に移管するところだが、そういう指示はしなかった。
「切り替えたはずみで無線がつながらなくなるかもしれない。そうしたら日航機は命綱がなくなってしまう」
じりじりとしながら画面をにらんだ。他機が近づかないよう、航路から退ける指示を続けた。
富士山をかすめた123便は、羽田のある北東に向かい始めた。
「戻れるかもしれない」かすかに期待も芽生えたが、周囲は山。
機体の高度は5分間で一気に3500メートルも下がっていた。
■同47分17秒(同地図③)
「現在コントロールできますか」
「アンコントローラブルです」
もはや管制官はまったく役に立っていなかった。ヘッドホンから「ああっ」
という声も聞こえてきたが、機内で何が起きているのかは、わからなかった。
「おれはどうしたらいいんだ」
絶望が襲う。その頃、機長らが必死に山を避けて操縦を試みていたことは、後で知った。
■同53分28秒(同地図④)
「えーアンコントロール。ジャパンエア123、アンコントロール」
「了解しました」
これが最後の交信になった。
3分後、糸の切れたたこのように画面上を点滅しながら漂っていた機影が止まった。
その場で十数秒間点滅した機影は突然、消えた。
体に電気のようなしびれが走った。薄暗い管制室は静まりかえった。
背中越しに指示を送っていた上司も、先輩も黙っていた。
30秒ほどして、上司に促されて呼びかけてみた。
「ジャパンエア123、ジャパンエア123」
応答はなかった。
ヘッドホンを外し、席を立った。別室で報告書を書いた。
妻には「いつ帰れるか分からない」と電話で告げた。
頭の中で何度も、交信した「最後の30分」を繰り返していた。
朝方に帰宅して、墜落した機体をテレビで見た。
ショックを気遣った上司に数日、休みを与えられた。
事故原因を調べる国の航空事故調査委員会や警察から、事情を聴かれることはなかった。
ソース元
http://www.asahi.com/national/update/0810/TKY201008100270.htmlはじめに。
日本航空123便墜落事故とは
1985年8月12日18時56分に、日本航空(現:日本航空インターナショナル)123便、
東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747SR-46が、
群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に墜落した事故である。

上写真:事故機のJA8119号機

上写真:秩父市大滝上空にて撮影された垂直尾翼を失ったまま飛行を続ける123便
事故の概要
運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書によると、
死亡者数は乗員乗客524名のうち520名、生存者は4名であった。
死者数は日本国内で発生した航空機事故では最多であり、単独機の航空事故でも世界最多である。
夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、
著名人を含む多くの犠牲者が出、社会全体に大きな衝撃を与えた。
特にこの事故を指して『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』と呼ばれることもある。
1987年6月19日に航空事故調査委員会が公表した報告書では、
同機がしりもち着陸事故を起こした後のボーイング社の修理が不適切だったことによる
圧力隔壁の破損が事故原因とされている。これをもって公式な原因調査は終了している。
遺族などの一部からは再調査を求める声があるが、行われていない。

wikiより。
日本航空123便墜落事故wiki日航機墜落の軌跡
本物のボイスレコーダーで日航機が墜落するまでを再現したもの。
http://nexx.jp/flash/jal123.swf※フラッシュへの直リンクとなります。
音が出るので注意して下さい。 衝撃的な画像などはありませんので安心してください。
なお、事故に関するとても重要な記録なので、是非とも目を通していただきたく思います。
後述で紹介する動画よりも強く、強く推奨します。
※フラッシュが苦手な方は以下のサイトでどうぞ。
ボイスレコーダーの内容をわかりやすいようにテキスト表示してくれているサイト
http://www.qmss.jp/interss/extra1/materials/cvr.htm動画で観る日航機墜落の軌跡
JAL123便の約32分間に渡る迷走の軌跡がどのようなものだったのか、フライトシミュレーターで再現
日本航空123便墜落事故フライトシミュレート
※コメント非表示推奨日航機墜落事故で亡くなった人の遺書とメモ書き
死を覚悟して家族宛に書かれた遺書、
不時着に備えて、機内アナウンス原稿を書いたメモなどの写真。
これらは現在、羽田空港内の日本航空安全啓発センターで展示されています。
http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-isyo.htm関連動画
youtubeより1985年に起きた日航機事故の4ヵ月後に放送された番組です。
(part1) (part2) (part3) (part4)(part5) (part6) (part7) (part8)以下、ネットユーザーの反応(一部修正しています)46
プログラマ(東京都) 2010/08/10(火) ID:0flvfZM1
結局、原因はなんだったの?
67
ディレクター(福岡県) 2010/08/10(火) ID:BaVTtsmJ
>>46以前尻もち事故を起こした際のアメリカでの修理が手抜きで、
その脆弱性が限界に達した結果と聞いた。
56
リセットボタン(愛知県) 2010/08/10(火) 19:27:31.70 ID:WnQZXkZ8
なんで英語なの?
65
歯科技工士(アラバマ州) 2010/08/10(火) 19:29:54.40 ID:lR9Jnxqi
>>56航空管制では英語が共通語なんですよ。
17
映画監督(中部地方) 2010/08/10(火) 19:09:44.81 ID:CBTML/AC
「これからは日本語で話して頂いて結構ですから」この言葉は衝撃的だった切羽詰ってる感じが一気に伝わってきた
26
動物看護士(アラバマ州) 2010/08/10(火) 19:13:43.76 ID:gzGmDGDk
一連の音声聞いていて最初にゾクッとするのが
この、「えー、これから日本語で話していただいて結構ですから」って部分だな
148
売れない役者(北海道) 2010/08/10(火) 20:02:44.56 ID:qXusOt7H
発生時には尾翼飛んで油圧も下がってコントロール不能だったんだから
何やっても無駄だったよ
スロットルコントロールだけでは着陸も着水も不可能
164
ディレクター(福岡県) 2010/08/10(火) 20:07:54.81 ID:BaVTtsmJ
>>148操縦士達は最期まで尾翼吹っ飛んだ事に気付かなかったようだが、
ある意味その方が良かった気がする
尾翼消失と油圧全滅のダブルパンチでは
努力しようとする気力すら湧かんかったかもしれん
40
漫才師(コネチカット州) 2010/08/10(火) 19:19:02.06 ID:ROq48NPr
明石家さんまが乗る予定だった飛行機なのは有名な話
※明石家さんまさんの他、元・宝塚歌劇団雪組トップスターの女優の麻実れいさん、
当時フジテレビのアナウンサーだった逸見政孝さんの家族らも同機に搭乗する予定でしたが、
直前にキャンセルし、難を逃れました。
また、稲川淳二さんもこの機に乗る予定でしたが体調を崩し乗らなかったと語っています。
語り稲川順二 日航123便動画
104
FR-F1(catv?) 2010/08/10(火) 19:46:29.13 ID:lAWwPQ/e
生還した人の話だと堕ちた直後は生残りも結構いたらしいな
で、ヘリが来たけどすぐ帰ったとか
※実は墜落後2時間ほどで横田基地の米軍が救助に到着していました。
救出態勢に入ろうとした時、
基地の将校から基地に帰還するように命令され、やむなく帰還。
何故なら日本の事故に対する米軍の救出活動は日本政府の許可が必要であり、
横田基地が日本政府に支援を打診したところ、政府は不要だと断った為です。
この判断に対し、様々な憶測が飛び交っていますが、詳しくは後述にて。
生存者の証言「やがて真暗な中に、ヘリコプターの音が聞こえました。
あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。
それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。
けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。
帰っちゃイヤって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と
声も出したと思います。ああ、帰って行く…。
このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。
しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした」 この件に関して、
事故の10年後(1995年)に米軍のアントヌッチ中尉から証言が得られております。
以下の記述に注目して頂きたいです。
アントヌッチ証言「なぜ自衛隊到着がおくれたか」
「墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていたときだった。
山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。
時刻は7時20分だった。……事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。
墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。
横田管制から、われわれの現在地から約40マイルの厚木基地から、
米海兵隊が救難に向かう準備をしていることを聞いた。一時間で到着できただろう」
「副操縦士のゲーリー・ブレイは管制に「海兵隊に急ぐように伝えてくれ。
もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね」といった。
管制官からは「生存者はいな い様子。了解」との返答があった。
「ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった」
とゲーリーは無線を外して私にそう いった。
当機は8時30分まで先回を続けた。
そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、
といわれたので、墜落現場 までの方位を教え、
当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。
8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった」
「午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。
位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で
地上に降ろすつもりでいた。われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。
私が司令部に連絡を取った」
「将校は『直ちに基地へ帰還せよ』『日本側が向かっている』と言ったので、
『司令部、海兵隊は救助続行を希望している』と言ったが、
『繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様』と命令された。
私は『了解。基地に帰還する』と応答した」
ブレイは渋々そのことを海兵隊に知らせた。
海兵隊も了解しており、引き上げ始めていた。
「われわれの到着から二時間経過した
午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れた。
管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。日本側が現場に到着したことで、
安心してその場をひき上げた」
もっとも、我々の燃料もほとんど使い果たしていた。
こうして米軍は撤収してしまう。横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。
アントヌッチを待っていたのは、第861戦術飛行隊副司令官、ジョエル・シルズ大佐であっ た。
グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、
大佐は「ご苦労だった。今回のことについてマスコミには一切他言無用」といった。
われわれは、緊張を強いられた17時間にも及ぶ飛行を終え、
休息をとるために飛行中退のビルに向かった。
そのとき、日航123便が満席に近い500人以上 もの乗客を乗せていたことを日本のテレビを見て知った。
起こった事故の大きさに驚き、声も出なかった。
スケジューラーが翌日の午後、
一週間の任務で沖縄へ 出発するようにとの指令をわれわれに伝えたので、その静寂が終わった。
乗務員はそのまま放置されたが、そんなことは通常ないことであった。
翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。
ニュースは、日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れてい た。
事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。
私はすぐに地図のところへ行って昨日の航跡を確認した。
私には正確な位置を示した、という自信があった。
私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだし、
日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。
あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側にあったのだろうか? 自衛隊の公式報告によれば、
翌日午前4時39分に機体の残骸を発見し、墜落現場を確認したという。
「私は打ちのめされたような気がした。
海兵隊が吊り上げによる救助を許可されていたならば、
さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。
海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが見つけられるところまで接近していたのだ」
「日航123便事故は、実際二つの惨事がある。
第一は墜落事故の衝撃で人々が死亡したことである。
第二には、遺体収容を援助した医師たちの証言に表れている。
つまり、もっと早く救援隊が到着していれば、負傷者、
または致命的でなかった乗客を発見できただろうということだ。
ある医師の証言は私の体の芯まで震え上がらせた」
彼は、
「もし、発見がもう十時間早ければ、我々はもっと多くの生存者を発見できたであろう」と言っている。
ここで一つの謎が浮かび上がる。
『なぜ自衛隊は、墜落地点を早くに知っていながら、
墜落現場を二転三転させる発表をおこなったのか』
この他にも、多くの納得いかない謎が残されていますが、
今回は深く追求するつもりはありません。
冒頭にも述べましたが、改めてもう一度言います。
日本航空123便墜落事故は絶対に、絶対に風化させてはいけない事故です。
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たまにはブログに足跡ペタリ。
こう言ってはなんですが、事故後の惨状はさながらオカルトだったようですね…かなりグロテスクな現場だったようで…。
言論の自由が保障されている今の内に言っておきますが、どうも自衛隊絡みの事故はもみ消しの跡や陰謀の匂いがしますよね。この事故然り、漁船との衝突事故然り。
腐っても軍隊だから頭は下げたくないのでしょうか?だから私は自衛隊は嫌いです。
| 墨鴉 | 2010/08/21 04:09 | URL |